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            月明かりの有り難さを思い知る、曇天の夜。

            眠りにつくために灯りが落とされた街は、濃密な闇に覆われ、カンテラ無しでは歩くことすら
            ままならない。




            こんな時間に出歩く必要のある人間の種類は、かなり限定される。

            その闇夜の路地を、頭から黒い外套を纏った人影がひとつ、灯りもなしに歩いていた。
            ヒタヒタという足音で辛うじて、歩く者の存在を知るという、それ程に人影は闇に溶け込んでいた。





            数隻の商船、漁船が停泊している港まで来ると、港に面した倉庫群を一瞥した。
            船の見張りや、倉庫の警備がところどころで、火を焚いて暖を取っているのが見える。


            人影はその灯りを避け、一番奥まった廃倉庫まで来ると、脇にある階段を躊躇いなく下りていく。

            階段の先には、地下倉庫の入り口にしては少々仰々しい、木の扉が鎮座していた。







            派手な音をさせて、扉が大きく開かれた。
            というより、蹴り開けられた扉が衝撃に耐えきれず、木の裂ける音とともに、内側に倒れたのだ。

            
            適度な灯りに柔らかく照らされる室内には、いくつかのテーブルと椅子が置かれ、14,5人程の男が
            思い思いの位置で、グラスを傾けていた。
            奥には立ち飲みのカウンターと、棚に整然と並べられたボトルに酒樽。
            カウンターの中には、グラスを拭く若いバーテンダーの姿。

            看板もない、マニアックな場所にあることを除けば、そこはごく一般的なショットバーである。



            注目を浴びるも、お構いなしに人影は遠慮なくカウンターに近づいていく。
            周囲の男たちに比べて、それは一回り程小さかった。



            バーテンダーは、拭き上げたグラスを棚に戻しながら、人影を睨みつけた。




            「…ドアはもう少し、静かに開けてもらえませんかね……魔道士殿?」

            店内にいる男たちが一気に殺気立つ。






            フードの陰から見える、形よく引き結ばれた唇が、静かに綻ぶ。
            「──換気になるだろう。…鉄サビ臭は、そう簡単には抜けないがな」
            
            やや少年っぽさの残る低い声が皮肉を紡ぎ。──黒い外套のフードが頭から落とされた。
            と同時に、背に零れ落ちるプラチナブロンドの髪を揺らして──青年は顔を上げた。

            長い前髪から覗く、少し目尻の下がったつぶらな目と、髪と同色の長い睫毛が作り出す、
            憂いを帯びたような眼差しに、通った鼻筋、艶やかな唇。

            静謐な空気を纏った、天使像を思わせる清廉とした美貌に、周囲が一瞬、言葉を忘れて
            見惚れていた。


            その界隈で、彼を知らない者はいない。





            「…やっぱりあんたか。魔道士クラウド」
            バーテンダーは忌々しげに呟いた。


            「へぇ…これが。初めて実物見るが、えらく別嬪じゃねーの」
            カウンターで飲んでいた屈強そうな男が、わざとらしく魔道士の顔を覗き込みながら、その顎を
            掴んで掬い上げた。



            「…二度は言わない。死にたくなかったら、手を離せ」
            クラウドの視線が、バーテンダーから外れ、その男の目を見た。
            途端、クラウドの中から一気に溢れ出る殺気。
            それは周囲の男たちを飲み込んで余りある、強烈なものであった。

            「ケッ、冗談の通じねぇ野郎だな」
            男は舌打ちしながら手を離すと、カウンターからテーブル席へ移動した。

            バーテンダーは溜息を付きながら、身を乗り出すように両手をカウンターについた。
            「──で、何の用ですか?予告なしの立ち入りは、協定違反のはずでしょ?」
            

            クラウドは、視線を再びバーテンダーに戻すと、カウンターの上に何かを放った。
            

            「この男がツルんでたメンツ、知らないかと思ってな」
            鈍い音を立てて転がったのは、切断した人の指であった。
            大きなオニキスのついた、凝った細工の指輪が嵌っている。


            「あんた、見かけによらず、やる事がえげつないな」


            「聞かれたことだけに答えてろ」


            「……その指輪のヤツなら、2,3回ここに来てたことがあるけど、連れは知らねぇよ。いっつも、
            一杯だけ引っ掛けて出てく感じだったぜ」
            バーテンダーは渋々答えながら、顎で、カウンターの上のイチモツを示す。

            「───何やったんだ?そいつ」





            「子供に手を掛けた。 夜中、寝てる部屋に押し入ってな」



            抑揚のないクラウドの静かな声に、怒りが滲んでいるのが分かる。
            「子供の体は脆い。 …首は獣に咬み切られたみたいにズタズタだった」

            「…犬にでもやられたんじゃねーの?」
            そう嘲って、わざと視線をそらすバーテンダーの胸倉を、クラウドはカウンター越しに掴んで、引き摺る
            ように自分の眼前に寄せた。

            「犬が血を吸えるか?一滴残らず」
            さっきまでの、牽制のような殺気とは違う、全く感情のこもらない、無機質で冷やかな殺気。
            
            次に妙なことをすれば、何の躊躇いもなく、自分の首は落とされるのだろう。

            今度はバーテンダーが黙る番だった。

              「…あんたら、自分たちの仕事は、覚えてるよな?」             クラウドは、バーテンダーから手を離し、カウンターの上の指を拾って、目の高さまで持ち上げた。                  「先に協定を破ったのは、あんたら吸血鬼だ」             そう言い放つと同時に。             不意に、バー内のランプの灯が、入り口付近を残して全部消えた。             次の瞬間、クラウドの持っていた、切断された指が爆発するような勢いで燃え出したかと思うと、             まばたきする間もなく、炭化して崩れ落ちてしまった。             焦げた指輪が、カウンターでバウンドしてバーテンダーの足元に転がる。             「邪魔したな」             クラウドは、もと来た出入り口の方へ移動しながら、周囲の男たちを一瞥する。             辛うじて、灯の残る薄闇の中で、茫然としている彼らの目は爛々と光っていた。             ──ここは、吸血鬼のみが集うショットバーの一つであった。                                 「最近、評判悪いぜ、 あんたら ! 」             バーテンダーは、出て行くクラウドの背に向かって、声を張った。             「…悪くて結構」             クラウドは、視線だけで振り返り、薄く嗤って呟くと、そのまま出て行った。             「──やれやれ。水、差されちまったぞ、と」             魔道士の後姿を、半ば唖然と見送っていたギャラリーは、その声で我に帰った。             「…今日は大人しく帰るとしますか」             入り口の一番傍ににいた声の主が、グラスを一気に煽ってテーブルに置いた。             どうやって染めたのか首を傾げるくらい、真っ赤な髪の男だ。                          「悪いな、兄サン。また来てくれ」             倒れていた扉を壁に立て掛けてながら、外へ出ようとしていたその男は、バーテンダーの             殊勝な物言いに肩をすくめた。             「あんたのせいじゃねーだろ」             ニッと笑って、ふらりと、地上への階段を上がっていく赤い髪の男の姿が、見る見るうちに             かき消えていく。             「!?」             男を、何の気なしに見ていた者たちは思わず絶句した。             「…なぁ…今のナニ?」             「知らねぇけど…消えたよな、今」             怖いもの知らずの年若い連中が、俄かにざわつく。             (──『神隠し』だ)             バーテンダーは、身震いした。             『神隠し』とは、姿を消して移動する術で、使える者はごく少数。             齢300を超える古参だけだ。             100歳前後の吸血鬼など、脆い人間と大差はないが、古参となると、その力は計り知れない。             いわゆる古株は、顔の売れた者が殆どである。             というのも、吸血鬼にとって力の差は、下手をすると捕食の関係へ直結するため、力のない者は             自分の身を守るために、顔を知っておく必要があるのだ。             バーテンダーは、グラスにウォッカを注ぐと、乾いた喉を湿らせる程度に口に含む。             …体の中へと滑り落ちていく焼けるような熱さが、ほんの少し、強張りを解いた気がした。             古参なら面識がなくとも、会合などで見知っているはずなのに、自分の記憶をどう辿っても、             その男の顔は出てこないのだ。             この狭い領域で、故意に身を隠しているということになる。             時々、一人で店にやってきては、談笑に交じることもなく、ゆっくり1,2杯飲んで帰っていく             赤い髪の男。             (…まさかね……あまり仲良くもなりたくねぇし)                          頭を過るのは、"白夜の森の吸血鬼"。             昔から、その存在がまことしやかに囁かれてきた、知る限りでは最古参である。             しかし、出所が古過ぎて、確かめる術もないとなれば、作り話である可能性も高い。             ──千年近くを生きるヤツなど、もはや化け物だ。             そもそも「白夜の森」とは、一体どこのことだ?             調べようもない、知ってる奴もいないってのに──             自分の取りとめのない思考を、クスリと嘲って終わらせて、バーテンダーは客たちに視線を             戻した。             ふと、出入り口の反対側にある裏口のドアが、少し開いていることに気付いた。             バーテンダーは思わず舌打ちする。             「…イヤな予感がするんだけどな…」             いつの間にか、カウンターでクラウドにちょっかいを出していた男が、姿を消していた。                    「魔道士カイエ・V」ニ戻ル * 「発端・U」ニ進む
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