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            修道士たちの言うとおり、昼間暖かかった反動で、しっかり冷え込んだ、その日の夜。




            ──名前を呼ばれた気がして、クラウドは目が覚めた。

            月明かりが、中庭に面した窓辺を青白く照らす時間帯──月がまだ真上に位置する深夜である。

            再び、ウトウトと眠りかけた時。
            回廊を走る、数人の足音が聞えて来て、完全に目が冴えた。
            静かに歩くことが鉄則の修道院内で、しかもこんな時間に、回廊に響くような足音なんて聞いたことが
            ない。



            「……?」
            怪訝に思いながら、クラウドは頭を枕に付けたまま、首をめぐらせてみる。

            寒さ凌ぎに、2、3人ずつ同じベッドで寝ている、孤児院の暖炉のある部屋。
            自分の横に寝ている二人は安らかな寝息を立てている。
            二人を起こさないように、そっと上体を起こして部屋を見回した。
            その1つ隣のベッドで、寝返りを打つのが見えたが、起き出す様子はない。

            …どうやら、足音に気付いたのはクラウドだけらしい。
            クラウドはベッドから抜け出すと、月光の差す窓際へ歩み寄った。
            曇る窓ガラスを、手で拭おうとしたところで、あることに気がついた。




            (…祈りの声が…止んでる?)
            こんなことは、今まで一度もなかった。



            クラウドは裸足であることも構わず、思い切って部屋を出ると、回廊にそのまま降りようとした。
            「…あ、冷た…」
            足裏を刺すような敷石の冷たさに、靴を取りに戻ろうとして、顔を上げる。



            ──シンと静まりかえった中庭。
            普段なら、耳に馴染んだ音階の祈りの声が聞こえてくるはずなのだ。

            それは、あってはならない静寂。
            (どうして──?)
            

            祈りが紡がれるはずの礼拝堂の方へ視線を移すと。
            彫刻を施された重い木の扉が、少しだけ開いたままになっているのが見えた。
            隙間から洩れる灯りを、時々遮っているのはおそらく、礼拝堂内を動く人の影。

            …裸足だからきっと、足音は気付かないはず。
            クラウドはそのまま、礼拝堂の扉めがけて走り出した。





            中庭を挟んで、孤児院から反対側に位置する礼拝堂まで。
            その間の回廊は距離にして30m弱。
            大して走ってもいないのに、緊張と相まって、上がった息が落ち着かない。

            何とか息を整えながら、そろりと木の扉に近づく。
            扉の影に隠れながら、何とか、開いた隙間から中を覗こうと顔を近づけた時。



            「──!?」
            思わず、クラウドは後ずさった。

            礼拝堂の中から漂う、奇妙な臭気。

            初めて嗅ぐものだが、強いて挙げるなら──鉄サビの臭いに近い。

            吐き気をもよおしかねない、その臭気の余りの強さに息が詰まったクラウドは、無意識に
            小さく呻いてしまっていた。





            「誰かいるのか?」
            礼拝堂の中から掛けられた声に、ハッと我に返ったが、時すでに遅し。

            礼拝堂の扉は内側に大きく開かれた。







            「クラウド!?お前…起きて…」

            扉の一番傍にいた修道士が、思わず声を上げた。
            その声に、堂内にいる人間が一斉に振り返る。
            決して明るくない、いくつかのランプの灯が照らし出す堂内には、殆どの修道士の顔が見えた。
            彼らは、何かを取り囲むように佇んでいた。




            入り口に立つ、小さなクラウドの視線を遮るように、別の修道士がクラウドの前に立った。
            「お前は…見ては駄目だ。部屋に戻りなさい」
            クラウドを見下ろす修道士の声は、何故か震えている。

            「…何で、お祈りしてないの?…カイエは?」
            クラウドの問いに、誰の返事も返ってこない。
            目の前の修道士もまた何も言わず、何かに耐えるように唇を噛んでクラウドの肩をそっと押し、扉の
            外へ促そうとしている。



            


            「…っ!! クラウド!駄目だ!!」
            修道士の手を振り切って、クラウドは彼らの作る囲いの中に飛び込んだ。

            一気に強くなる、鉄サビの臭い。


            「…もういい。隠せることではない」

            暗く、掠れた声が、クラウドを赦した。
            囲いの中に居たのは、副士長のアンジールであった。
            何かを大事そうに腕に抱えたまま、俯いて床の上に座り込んでいるアンジールの顔は、
            影になって、クラウドからはよく見えない。
            その床の、ところどころに赤黒いシミが出来ていた。



            「…おいで、クラウド」


            クラウドは呼ばれるまま、おずおずとアンジールに近づく。
            その時初めて、彼の頬が涙で濡れていることが分かった。



            アンジールが抱えているものは、綺麗な織物で、おくるみのように包まれている。
            

            「…首から下は…酷くて見せられん…」
            酷く鉄サビ臭のする…その一部分が、アンジールの手でそっと剥がされた。

            




            「──お別れするんだ…カイエ…と」






            ・・・かいえト、オ別レッテ、何?





            クラウドは、アンジールの腕の中を見た。


            ───アンジールが抱えている、織物に包まれた、動かない、人。

            紅茶色の髪、長い睫毛が影を落とす、聖母像のような端正な顔立ち。             その顔は…よく知ってるはずなのに、知らない人のように見えた。             息の仕方が分からなくなった。             まばたきの仕方が分からなくなった。             自分の中の全てが、目の前の光景を拒否した。             …苦シイヨ……苦シイヨ…             呆けたように、ただ、その顔を凝視し続ける。                                       ……誰カ……助ケテ──             ───カイエ…             名前を読んだら、目を開けてくれるかな…?             ……でも、声が出ないんだ……出し方が…分からないんだ───                          …僕ノ、セイ、ダ…             「…クラウド?」             アンジールの声が遠くなっていく。             クラウドの小さな手が、カイエの頬に触れようとしたが、叶わず、指先が織物に引っかかった。             途切れかかった意識の中で、肌蹴たカイエの首筋に付いている牙の痕を、クラウドは確かに             脳裏に焼き付けていた。                                                                              ──コンコン。             控えめなノックの音に、アンジールが椅子から立ち上がる。                          「──カンセルです。…クラウドの食事、持って来たんですけど…」             クラウドに、部屋に戻るように促していた年若い修道士である。                          アンジールは、窓際のベッドを見遣りながら部屋の外に出ると、後ろ手にそっとドアを閉める。             …カイエのベッドでクラウドが眠っていた。                          目を覚ました時、ここが一番落ち着くだろうと、カイエの部屋に連れてきたのだ。             理由はもちろん他にもあったが。                          敷地内にある鐘楼で、夕刻を告げる鐘が打ち鳴らされている。             クラウドが礼拝堂で倒れて半日が過ぎていた。             その間、密葬という形でカイエを埋葬し、それに伴う諸々を何とか片付けて、表向きは             ほぼ平常通りに戻っている。             カイエに関する事は厳重に秘匿され、『領内の他の修道院へ出向』ということになっていた。             そう長く隠しおおせるはずもないが──そうするしかなかった。             最強の魔道士といわれたカイエの死が、どういう結果をもたらすのか、全く予想がつかない             のだ。             "ある方面"では抑止力となっていた彼の存在。             外れてしまったタガが、押し留めていた中味は、果たして、残された者で収拾できるのだ             ろうか…?             カンセルは、アンジールに食事の載ったトレーを手渡しながら、声を押さえて聞いた。             「温かいうちに食べられたらと思ったんですが、クラウドは…」                          アンジールは首を振った。             「…まだ、目を覚まさない。ショックが強かったんだろう…私も軽率だったよ」             アンジールは後悔していた。             身に余るショックで、言語障害や記憶障害などを引き起こすことがあるが、情緒の不安定な             低年齢層にその傾向が強く、障害も後を引きやすい。             クラウドの、気を失うまでの様子が気になっていた。             まばたきを、呼吸を忘れて…ただ茫然と、カイエの亡骸を見ていたクラウド。             アンジールは、泣かせるつもりでクラウドにカイエを見せたのだ。             泣くことで、カイエの死をきちんと受け入れて、乗り越えてほしいと。             しかし、実際は。一言も発しないまま気を失ってしまった。             ……クラウドには、まだ無理だったのだろうか。             「──でも、自分は、あれで良かったんだと思います。でないと、クラウドが納得しません。              …きっとクラウドも分かってくれます」             「……そうあってくれれば、いいがな」             アンジールが溜息まじりにそう言いながら、ドアの方へ向き直ろうとした時。             ガタン!             部屋の中から、何かが床に落ちた音が聞こえた。             「「 !! 」」             アンジールとカンセルは思わず顔を見合わせた。             食事のトレーを持っているアンジールの代わりに、カンセルが慌てて部屋のドアを開けた。                          クラウドが床に、不自然な姿勢でペタンと座り込んでいる。             ベッドから落ちたらしい。             「クラウド、大丈夫か?どこか打たなかったか?」             カンセルはクラウドの両脇に手を入れて起こしてやりながら、クラウドの顔を覗きこんだ。             寝ぼけているのか、焦点の合っていない感じの茫洋とした目が、カンセルを不安にする。             「…カイエは…どこ?今、ここに居たのに…ねぇ…どこ?」             夢に見たのだろうか。もしかしたら、クラウドを心配して、彼が本当に来ていたのかも知れない。                          彼の後を追って今にも生命活動を放棄してしまいそうな、冷え切った小さな体を、カンセルは             居たたまれずに抱き締めた。                          「カイエは死んだんだ。…クラウド」             クラウドの肩が小さく跳ねた。             トレーをテーブルに置いて、アンジールは静かにクラウドに告げた。             歯に衣を着せたような、優しい言葉は、いくらでもある。             だが、アンジールは敢えてそれを避けた。             装飾のない、抉るように突き刺さるアンジールの言葉こそが事実。             どこまでも残酷な、逃れようのない、現実。             「もう、会えないんだよ…分かるな?」             カンセルの肩越しに、アンジールを見上げるクラウド。             そのクラウドの目に、光が戻り始めた。             それにつれて、ポロポロと零れ出した大粒の涙。             ──クラウドは、ようやく声を上げて泣き出したのである。             愛する者の死を、事実として受け入れ始めたクラウド。                                       カイエの死を認める──今のクラウドには、ここまでで精一杯だろう。それでいいと思う。             だが…いずれ、疑問に抱くようになる。             何故、カイエは──殺されたのか?と。             礼拝堂の中に充満していた、鉄サビの臭いの正体を知るのは、おそらく、そんなに先の             話ではない。                                                    果たして、自分たちは、何故?と問われた時に、明確な答えを示すことが出来るだろうか。             自分たちが、犯し続けてきた罪への、大いなる罰なのだ。と───                                                                 クラウドが、ショック状態を脱したことに、密かに胸を撫で下ろしたアンジールであったが、             今度は、カイエの事を一切口外するなと、クラウドを他から隔離してまで言わなければ             ならない自分の立場を、これほど、やるせなく感じたことはなかった。             カイエが死んだのは、僕のせいだ……夢のことを話してしまった、僕の──                          クラウドは、信じて疑わなかった。             カイエの首に残された牙の痕は、夢の中の、あの男がつけたものだと。             ……カイエは、獣のような牙を持つ、あの男に殺されたのだ。と───。                                                   *                         *                         *             不思議な夢が、悪夢へと変わった、あの日。             その夢を見るたびに、俺の中に今も棲み続ける"小さな自分"が、自分のせいだと             泣き叫ぶ。                                                    …俺は待っているのだろう。             『お前のせいではないよ』と、誰かが否定してくれるのを。             そう否定して──赦してくれる誰かを。             現れるはずがないと、分かっていても、尚。                          
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