W








            ぶつり、と皮膚が破れる音。

            鼻をつく、濃い血臭。



            ぐちゅ、と牙がめり込んでくる感覚が、直に体を伝わって、自分の耳に聞こえてくる。


            吸血鬼の牙自体に麻酔作用でもあるのだろうか。

            既に、電撃による痺れは消え、火傷を負っているであろう手首の痛みが強くなってきたというのに。
            喉元に感じる痛みは思いの外、鈍い。


            それより。
            酷く熱いと思った。





            ゴクリ…ゴクリと、ゆっくり愉しむように喉を鳴らして、飲み下されていく自分の血。
            自分の──生命。

            カイエが生かしてくれた、命。







            …死二タクナイ



            無意識に体が動いていた。
            失血のせいか、力を入れようとする側から力が抜け、ガタガタと体が震える。
            それでも、自分の喉元に喰いつく男の肩を、渾身の力で押し返した。

            男は渋々、クラウドの喉から口を離す。
            「…往生際わりぃなぁ」

            苛立ちを滲ませながら、クラウドの両手を一纏めにして、片手でその頭上に押さえつけた。


            クラウドは、男を睨みつけた。

            「いいねぇ、綺麗なお目々。何?煽ってんの?」
            暗闇に光る男の目は、明らかに欲を孕んでいた。



            「そういえば、あんたの悲鳴聞いてないな〜」
            クラウドの左目の周りを、つうと、尖った爪がなぞり、眼窩と眼球の隙間を覆う瞼の上で止まる。
            「なぁ……。このまんま、くり貫いてやろうか?」



            悪寒が背中を走るのと、風が生ぬるく頬を撫でていくのは、同時だった。




            草が、吹き始めた風にさざめく。
            

            その内、血臭まじりの風が、野犬や狼を引き寄せてくることだろう。
            望もうが望むまいが。









            ──風。  意思を持たない、純粋な大いなる力。
            ショットバーで、切断した指を燃やすのに拝借した、ランプの"火"と同じ──?





            
            瞼に、生殺しのように爪の圧力が掛かっていく。



            クラウドは、歯を食いしばって、声を、身動きを堪えた。




            「…っ!!」
            鋭い痛みに、思わず声を上げそうになる。
            瞼が切れたらしい。目の中に少しずつ流れ込んでくる自分の血。






            チャンスは1回。



            火と違い、風は不可視の力。果たして、同じように扱えるのか。
            やってみる以外に道はない。


            風が止んでしまう前に。
            自分の上に跨っている男に、悟られないように。
            


            (風を司る王アイオロスよ。我が生気を糧とし、風を纏う力を貸し与えよ!!)
            クラウドは心の中で正呪文を叫びながら、略呪文を小さく唱えた。

              Συλλεξτε   Και   δινει απο
            「 集え。 そして、 放て 」



            急に風向きが変わった。
            まるで、排水口から勢いよく流れ出ていく水のように、風が、甲高い風切音とともに、ある一点に
            向かって吹き込んでいく。
            ──クラウドの掌に向かって。


            やったことのない魔法を、実戦で使うことほど、危険なことはない。
            どのような副作用があるのか分からずに、毒か否かも定かでない薬を、適当な量飲むのと同じだ。

            (重い……っ)
            
            草がそよぐ程度の微風を集めているにも関わらず、手首から上が、頭上に押さえ付けられたまま、
            岩でも載せられたかのように地面に縫い付けらる。
            

            これが、もし強風だったら、腕がどうなっていたか知れない。




            「…な…?!」
            動揺した男の、腕の拘束が緩んだ。


            クラウドは、その隙をついて、押さえつけられていた腕を取り返すと、男の眼前に、両の掌を
            翳した。腕がギシギシと悲鳴を上げた。

            呼び込んだ風を、一塊りにして解放した。
            衝撃の反動で、クラウドの上体が数cm地面にめり込んだ。
            背中を預けるものがなければ、恐らく両腕を脱臼していただろう



            「くそっ!!」
            男は、寸でのところで片腕を上げて、顔面をガードしたが、風の塊をスルー出来るはずもなく。

            ドンという音と共に、男は10mほど吹っ飛んで、草叢に落下した。






            クラウドは腹這いになり、何とかソードに手を伸ばして柄を握ると、それを支えに立ち上がった。

            だが、そこまでだった。

            ソードを持ち上げるどころか、歩けるか否かもかなり怪しい。ソードを杖代わりに、立っているのが
            やっとの状態である。

            喉元の出血は止まっているものの、左目は相変わらず血が流れ込んで、目が開けられない。
            失血と不慣れな術の発動。思った以上に体が疲弊していた。


            魔法を使うにも、それなりにエネルギーが要る。
            エネルギーはいわば生命力。
            慣れた術なら、力の抜きどころが分かるというもの。いくらでも加減の仕方があるし、その見極めもまた
            重要な部分である。

            が。
            今回のように、緊急時に初めて使う術の場合は、それに振り回され、大抵が力加減を失敗する。
            しばらく動けなくなる程度の消耗で済んだのだから、クラウドは運が良かったという他ない。
            失敗から、そのまま命を落とす術士の方が多いのだ。




            ゆらりと、男が立ち上がった。
            「てめぇ…よくも…」
            顔を庇ったせいで、あらぬ方向に曲がっている自分の腕が、クラウドを見据える視界の端に入る。



            やはり、男にさほどのダメージを与えられなかった。
            クラウドは自分の非力さに辟易しながら、青白く光り始めた男の手を見ていた。


            「…消し炭にしてやる」
            男は、バチバチと放電する掌をクラウドに向かって翳す。
            その雷撃を浴びれば、間違いなく即死だろう。

            体を撫でていく叫び狂いたい程に嫌な空気の、時間の流れに、クラウドは鳥肌を立てながら
            目を閉じて、身を委ねるしかなかった───












            「な!?──ぐあぁ…っ」

            突然、男の悲鳴が響き渡る。

            「 !? 」
            クラウドは我に返って目を開いた。


            男の金色の目が、信じられないといったように見開かれている。

            何が起きているのか、全く分からない。

            男の目の光が、すうっと闇に溶けた。
            その直後。

            肉が裂け、骨が砕ける音が。そして、夥しい血臭が。
            目の前の暗闇から、溢れるように流れ出した。
            クラウドは堪らず身を震わせる。



            「ぁひっ…」
            その声を最期に、男の気配が完全に消えた。
            男が死んだのは間違いない。







            クラウドの全身から、汗が噴き出す。





            何かいる。

            自分を手玉に取っていた吸血鬼を容易く葬れる程の、恐らくヒトではない、何かが。

            いるはずなのに、全く気配を感じ取れない。殺気すら、ない。







            クラウドは嗤った。既に終わってるではないか、と。
            どう足掻いても、その場を逃れられる気がしなかった。


            もしかしたら、その何かは、既に自分の目の前に立っているのかも知れない。

            「…次は俺だろ…? 早く殺せ…よ」
            クラウドの、精一杯の負け惜しみが、木々を揺らす風にかき消えていく。
            反応のない暗闇。
            ───しかし、クラウドには、その“何か”が、自分の声を、耳をそばだてて聞いているような
            気がしてならなかった。




            自分が、平衡感覚を失いつつあることが分かる。


            体を襲うであろう、地面にぶつかる衝撃に身構えることさえも出来ないまま。
            グラリと倒れ掛かる自分の体を、どうすることもできなかった。




            遠のく意識の中で。クラウドは誰かに抱き止められたような気がしたが、都合のいい錯覚だと
            思いながら、意識を手放した。








                   「発端・V」ニ戻ル * 進ム
扉ニ戻ル