『──クラウド。俺に会ったことは誰にも言うな。もし、しゃべったら───』





            自分の名を呼ぶ、ずしりと、腹に来るような低い声。
            青白い薄闇の中で、大きな、影のような男が爛々と光る碧い目で自分を見下ろす。
            視界を遮るほどの暗さではないのに、なぜか男の顔だけが見えない。

            男は、笑ったのだろうか。
            歯が見せながら、自分に向ってゆっくりと手を伸ばしてくる。

            自分の首筋に、男の大きな手が触れたその時。

            見えたのは──獣の牙のような歯。









                                                             






                             T                              





            自分の呻き声で、目が覚めた。

            「なんで最近、こんなに…」
            顔を掌で拭いながら、ベッドの上で上体を起こす。

            拭った掌がぬるつく。寝汗で濡れた夜着が、体に纏わり付いた。



            小さい頃からよく見る、同じ夢。
            何故こんな夢を見るようになったのだろう?
            誰かから聞いた怖い話のせいなのか、冒険譚の読み過ぎが原因なのか。
            自分の経験からくるものではないはず──だって、記憶にない。
            そして、夢はいつも同じ所で終わってしまう。

            もし、しゃべったら──何?
            その先は、未だに分からないまま。

            ただ、不思議と、夢の中の男を怖いと思ったことはなかった。

            ──あの日までは。


            "あるもの"の存在を初めて知ったあの日から、夢は本当の悪夢へと
            変貌してしまった。




            クラウドは、振り払うように、汗で濡れた上衣を脱ぎ捨てると、枕元に立て掛けていた
            剣を掴んで宿舎の外に出た。

            刀身の幅が掌ほどもある、背に担がねば引き摺ってしまう位の大きなソード。

            白磁を思わせる艶やかな肌。やや癖のあるブロンドは肩まで伸び、同色の長い睫毛が
            大きな空色の瞳を縁取る、端正で中性的な顔立ち。
            可憐と言わざるを得ない、体格的にも華奢なクラウドに余りに不釣り合いなそのソードは、
            ある人から受け継いだものだ。

            強くてカッコよくて、ぶっきらぼうだけど優しくて。どこか儚げな──大好きだった人。






            月は西の空に傾きかけていた。
            クラウドは足音を忍ばせて、中庭へ続く回廊に出た。


            セント・イレーニア修道院。

            宿舎からつながる回廊に厳粛に響くのは、一晩中途切れることのない修道士たちの祈り。
            クラウドはここに併設されている孤児院で、祈りの声を子守唄に育った。
            彼の記憶は、この修道院から始まっている。

            クラウドはソードを顔の前で水平に掲げる。
            柄の部分にある、金の台座にはめ込まれた紅い霊石が、月の光に照らされて、波打つ
            ように輝く。
            一部の修道士のみが持つことを許されたソード。


            「カイエ…見てて。必ず仇はとる」
            クラウドは、息が上がるまで無心でソードの素振りを続けた。












            ウートガルド領の主要都市・ヨールンヘイム。
            貿易の拠点として栄える港町の、奥まった高台への上り口付近に、修道院は位置する。
            切り立った崖に囲まれた、その高台の上にあるのは領主の城。

            修道院は城を魔から守る結界としての役割も持っていた。






            しんしんと雪の降る大晦日の夜、俺は、孤児院の前にポツンと立っていたそうだ。

            やっと自分の名前を言える程度の幼児だったらしく、あと少し気付くのが遅かったら、
            お前死んでたんだぞと、後からカイエが教えてくれた。





            標準より人一倍小さく、体の弱かった俺の面倒をみてくれた修道士長カイエ。
            彼もまた、この孤児院で育ったという。
            物心がついた時、いつも一番傍にいた人。それが彼だった。



            鉄仮面とあだ名されるほど無表情で、おまけに無口。
            まるで心を見透かすように、人の目をジッと見ながら、時々話す言葉は背筋が凍る
            ほどに冷たくて。
            『怖い、何を考えてるか分からない』と、殆どの修道士が敬遠する、いわゆる扱いにくい
            人であった。


            俺を見る目も、やっぱり冷やか。
            でも、俺は、この人が纏う雰囲気が好きで、彼の服の裾を掴んでくっついてまわっていた。
            ピンと張りつめたような空気は、誰よりも澱みがなくて、少し温かくて。
            ──困惑気味な表情を見せつつも、彼は決して俺の手を振り払うことはなかった。
            


            稀に、ふわりと微笑む彼を見ると、すごく嬉しかったのを覚えている。




            紅茶色のさらさらの髪。前髪の隙間から覗く切れ長の目は、海の碧。少しだけ
            ベージュ寄りの滑らかな肌。それらが彩る、彫像のような整った顔立ち。

            適度な筋肉に包まれた、スラリとしたしなやかな体躯は、何を着てもよく似合っていた。
            修道士の制服も、たまに着る私服も…魔道士の制服も。







            魔道士とは、呪術を用いて魔物を調伏する術者のことで、存在を知るのは修道院内の
            者と、ごく限られた人間のみ。
            最も魔から離れているとされる修道士から選出される訳だが、もちろん誰でもなれる代物
            ではない。

            膨大な量の魔術書を暗記できる頭と、使いこなす精神力、魔術との相性。プラス剣術と
            体術。それらが揃って初めて、魔道士となる。
            魔術との相性が合わなければ、そもそも術は発動しない。
            魔術が使える人間自体が稀なため、魔道士は非常に貴重な存在であった。




            エンジ色の袖なしのハイネックに、肘上まである長い革手袋。上衣と共地の細身の
            パンツに黒いスカートという魔道士の恰好は、特に彼の体躯を際立たせた。
            大きなソードを容易く取り回す姿は、さながら闘神のように勇ましく、神々しかった。
            
            






                             *
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            同じ修道院内に居るにも関わらず、鍛錬時以外、滅多に人目に触れることのない
            魔道士だが、小さい頃に一度だけ、魔道士として夜警に出る彼に鉢合せてしまった
            ことがある。





            トイレは寝る前に済ませ、原則として夜中は部屋から出ないこと            孤児院の就寝時の規則である。

            修道院内は、炊事場・風呂・トイレという水回りだけが別棟に分かれているのだが、
            過去に、トイレに起き出した幼児が誤って風呂に落ちて死んだことがあったらしく、
            それ以降、炊事棟への深夜の出入りは、かなり厳しく制限されていた。
            
            部屋には一応、尿器のようなものが設置されてはいるものの、どうしても使う気になれず、
            寒気がして小便が我慢できなくなり、部屋を抜け出して、ぬき足差し足で用を足した後。


            ホッとしたのもつかの間。
            トイレから回廊に出て、部屋に戻ろうと踵を返した目の前に、カイエが仁王立ちして
            いたのだ。
            夜中だというのに夜着ではなく、魔道士の制服を着たカイエが。
            

            「小便は寝る前に済ませろ、と言ったはずだが──?」
            …無表情に怒る彼の恐ろしさは、相まみえた人にしか分からないと思う。

            が。この時ばかりは返事も忘れて、目の前の妖艶な姿に見惚れてしまっていた。
            カイエに、クラウド?と呼び掛けられるまで。
            


            「あっ、ご…ごめんなさい…」
            ハッと我に帰って、思わず謝りながら俯く。

            と、俯いたところで、二つ目の過ちに気付いた。大きめの夜着から、自分の裸足の
            爪先が覗く。
            お下がりの大き過ぎる靴が邪魔で、靴を脱いで遊ぶ癖がついていたのだが、
            『子供らしくていいじゃないか』と笑う他の修道士と違って、カイエは絶対に良しとは
            しなかった。



            案の定、遥か頭上から大きな溜息が聞こえて。
            「…また、お前は裸足か。それでケガしたことを忘れたか?」
            言うが早いか、ジタバタする間もなく、あっさり肩に担ぎ上げられてしまった。

            「今度裸足を見掛けたら、靴は没収するからな」
            カイエならやりかねない。
            肩の揺れに、舌を噛みそうになりながら、許しを乞うしかなかった。





            カイエの歩みが、何故か孤児院の宿舎から離れていく。
            罰だといわんばかりに、切れるように冷たい井戸水で、足の裏を濯がれた後。



            「…カイエ?ぼく、部屋はあっち…」
            そう言い募る自分を無視して。
            無言の彼に担がれてやって来たのは、カイエの部屋。


            自分が孤児院に来てしばらくの間、一緒に寝起きしていた所だ。

            「寒くて起きたんだろう?熱がある。他にうつると厄介だから、ここで寝ろ」
            ようやく肩から下ろしてもらえた場所は、カイエのベッドの上だった。
            半ば強引にベッドに押し込まれ、頭からブランケットを被せられた。
            不器用な彼の、不器用なりの優しさ。


            カイエの匂いを胸いっぱいに吸い込んで安心したのか、途端に睡魔が襲う。

            ブランケットから顔を出して、彼を見上げる。
            いつの間にか灯された蝋燭の火が照らし出す彼の姿は、ことの他幻想的で。
            「カイエ…はこれからお仕事?」

            「ああ…明け方に戻る」
            額に触れる、カイエのひんやりとした大きな手が気持ちいい。
            もっとカイエを見ていたいのに、目を開けてられない。                     
            


            「ケガ…しないで…かえってき…て……            そう言うのが精一杯で。



            その後、カイエが何か言ったような気がした。
            でも、分かったのは、控えめに額に当てられた彼の唇の感触だけ。





                             *
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            綺麗な綺麗なカイエ。





            大きくなったら、大好きなこの人の役に立ちたい。



            強くなって、自分を慈しんでくれた彼を、次は自分が守るんだ、と。
            その思いは自分の中で誓いとなり、躓いて凹んだ時には奮い立つ力になった。
            
            
            


            
            
            ───それなのに。
            
            
            忘れもしない。修道院で迎えた五回目の冬。
            よく晴れた、満天の星空の下。





            カイエは──逝ってしまった。
            
            
            
            
            









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